私に出来るのはせめて、知らないでいること
005:ただ静かに降り注ぐ雨の行方など知らないままで
濡れた風が吹いた。乾燥することも多いが湿気るとなれば一気に湿気る。長い驟雨は豪雨にもなりえる。喧騒の性質が変わったことに葛はしばらく気付かなかった。ただ少し音が沁みるようだと思っただけだ。ざわめきの大小に葛は目線を上げた。幌で広げるような簡易的な庇さえない店舗であるから雨宿りもいない。往来を乗り物や人が慌ただしく駆け抜けていく。湿気ていても風を通すべきか逡巡する。機器は精密に分類されるから判断が難しい。葵の意見を訊く心算で姿を探す。窓際に立って身を乗り出している。
「葵?」
多少後ろ暗い生業をもつ身として世間ずれしている。明確な個人情報や詮索を良しとしない機関であるから葵と葛は知りあった時間のわりに互いの事を知らない。なんでも知りたがる葵にしては珍しく分別のある態度だ。だが訊かない代わりに言わない。葛が葵について知っていることは、こんな職業に就いても文句を言ったりする親戚はいないらしいということだ。互いに私的な書簡はあまり来ない。時折近所づきあい上のあいさつ状が回ってくる。互いに宛名が個人名であっても、それは何だと訊けば見せられるようなものばかりだ。あとは軽薄な調子とみなりからは考えられないほど語学が堪能なことか。葵は平然とした顔で多ヶ国語を取り交ぜた現地風の話法を展開する。適応能力も高くすぐ土地に馴染んだ。
身を乗り出す葵の髪が雨に濡れているのではないかと案じて腰を浮かせた。葵の髪は少し色素が抜けていて日本人としては薄い方だ。悪戯っぽく煌めく双眸も同じで灼けたような肉桂色をしている。色褪せた写真に似ていると懐かしみたい色合いだ。それでも水に濡れれば重く湿って栗色にまで深まる。夕立にあって這う這うの体で帰ってきた葵の姿に覚えた違和感はそれであると後になって気付いた。葛が席を立っても葵は振り向かない。腹立たしいほど葵は気配に敏い。あえて無視しているとしか思えず、葛はわざと足音高く歩み寄った。
「あおい!」
肩を掴もうとあげられた手は、素早く反転した肩をとらえ損ねた。髪先を揺らすようにして振り返った葵はやはり濡れていた。短く切られた髪は重く柿渋のように沈んだ色を見せる。明るく煌めく双眸だけはそのままなのに、それが却って硝子玉のように無機的に見える。言いだしたら聞かない我の強さのように走る眉筋は明瞭で、切れあがるように一筋長い睫毛が見えた。聡明に瞬く睫毛の色さえも肉桂色に薄く、西洋人形でも眺めているような心地になる。濡れた前髪が額へ張り付いて葵がかき上げると雫を散らして揺れた。襟足は短く刈り込んであって頸骨さえ判りそうなほどすっきりとしたうなじだ。
葵は儚く笑う。時折葵はこういう表情を見せる。時代や生まれ持った能力を考え合わせれば、のうのうとした人生など送っていない。尊敬と慕情と肉欲と侮蔑と。体だけではなく心までさらすようにして葛は生きてきて、葵がどうであったかなど知らないのにともに寝起きするだけでこんなに。たまに見せてくれるそれがとても珍しいことと、なんの含意さえない無垢であるように葛は思う。思惑に私利私欲が絡まないことなどないと判っていても葵のそこに作為を読み取れない。日頃から開けっ広げに笑って泣いて怒って、葵は感情の起伏を見せることを躊躇しない。それは自分が持てなかった強さであると葛は最近思うようになった。笑って油断し泣いて弱味を見せ怒って隙を見せる。つけ入る隙は同時に知りあうためのとっかかりにもなる。葛はそれらを一律に律した態度で生きてきた。笑わず泣かず怒らずただ堪える。時に息が詰まるようなそれに噎せながらも葛はそれを後悔したことはない。葛の所属も関係していただろう。この生業に就く前に葛は軍属として、それに殉ずるものとして生きていた。忌むことしかなかった特殊能力でこの生業を得て、葵に出会えたのは皮肉でしかない。
「…なんだ、その顔は」
言ったそばから不味いなと思う。葛の位置で得られるものは命令と享受しかなかったから、葛は関係の距離を測るのが苦手だ。距離をはかろうと苦心しても土足で踏み込むような真似をしてしまったり、遠ざかる相手を追えなかったりした。相手の気に障る物言いも何度も繰り返す。長年の生活で染み付いた紋切口調も断定するような強い言葉遣いも直らない。
「どんな顔だよ? オレにはみえなーい」
葵はへらっと笑って茶化す。深刻な事柄さえも笑い話で濁せるのは葵の特技だ。それでいて揶揄していいか、どれほど深刻であるかは踏み違えない。太い眉筋も明朗な眦も葛に向けて開けっ広げに笑いかける。それでも葛の意識がささくれる。葵の真意はここにないと葛は疑いもしない。直感と言ってしまえば裏付けさえないそれに覚束ない。それでも、葵がどういう状態であるかくらいは判るつもりだ。
「茶化すな。雨が降っているなら窓を閉めろと言いに来たん」
何度も逡巡した末の言葉がこれでは咄嗟の際に怒りを買っても仕方ないと自嘲した。深層の歪みを感じながら葛は言及できない。それが己の弱さだ。
「はは、ごめん。雨なんて珍しくないんだけどなー…ただ、そうだなぁ」
葵の目が眇められた。狭まる空間に潤んだように眼球が煌めいた。硝子のように艶を帯びるそれはどこか過剰だ。葛は唐突に葵は泣きたいのではないかと思った。髪や頬さえ雨垂れに濡らして葵はただ涙するための過剰な水分が必要だと。
「……ただ、…オレは」
躊躇するように紅い舌先が舐めた唇に吸いついた。葵の口から言葉が零れる前に塞ぐ。震える舌を吸って柔らかく絡めた。見開かれていく葵の眸の動きがはっきり判る。色素が薄いので瞳孔の集束が明瞭だ。見開かれた分、白目の割合が増えて瞳が縮小したかのような錯覚を得る。絡めた舌先からびりっとしびれるように香草が薫る。安い煙草は材料も粗いからあと味やにおいが残りやすい。葛より港の露店に馴染む身なりの葵は出かけることも多い。個人的な愉しみとして繰り出すことも多く、思わぬ土産を持って帰ることもある。女物の髪飾りや揚げ菓子、時に見知らぬ子供さえ連れ帰る。なんだそれはと問えば、親が見つからないらしいとあっさり明かす。その後にどうするのか葵が子供の始末に困っているのは見かけない。葵の要領の好さは葛も知っているから執拗に問い詰めたりはしない。手放す始末ができたことが肝要であって子供の行く先に気をかけても仕方ない。
唇を重ねた衝撃に動きを止めていた葵の指先が震えた。葛の肩へおずおずと添えられる。しがみつく厚かましさもはねつける潔癖もなく、惑うように葛の肩を撫でる。葵の唇は湿したばかりで豊潤に潤っている。それでも唾液は唇を乾燥させる所為か沁みとおるような潤みではない。葛は口づける葵の唇自体の潤みに酔いそうだと思いながら何度もついばんだ。息を継ぐために離れても葵は葛を拒絶しない。葛は再度吸いつく。それを何度か繰り返した。葛の側から髪や服を掴んで引き寄せたりはしない。ただついばむだけの唇を、葵は享受するように黙ってされるままになっている。
葛の目線がまっすぐ葵を射抜く。口づけるときには目を閉じろと年長者に諭されても葛は目蓋を閉じない。目を閉じないと出来ないことなどしない。俺は俺のしたことから目を背ける気も見ないふりをすることもしない。責任を負う心算の気負いと同時に葵の反応が見たい興味もある。寝床での交渉に及ぶにあたって葵は同性同士である点に躊躇しなかった。手管も慣れていてある程度の経験があると見えた。葵の性遍歴を問い質す気はないが、曲がることさえ知らない己の強引さに熟れた葵がどう出るかは興味があった。葵の双眸は驚きに集束したが目蓋を閉じることはない。瞬く睫毛さえ疎ましげに葵も葛を見据える。
「……目を閉じろって教わらなかった?」
「見たくないことはしない」
「馬鹿、礼儀だよ」
息継ぎの合間に交わされる言葉に葵がふふっと笑う。
葛の手があげられて葵の髪をかき乱しながら掴んだ。そのまま唇を寄せる。貪るような厚かましさはないが触れるだけの謙虚さもない。口腔へもぐりこませた舌先は葵のそれにしっかり絡む。葵の息が上がって弾むように肩が揺れる。それでも葵は嫌だとは言わなかった。離れた舌先を煌めく銀糸がつなぐ。透明な糸はぷつりと切れて互いの口元へ収まる。
「…誰か来たらとか、どうするんだよ」
「どうもしない。俺は恥じるような真似はしない」
きっぱりと言い切れば葵の目が瞬いた後にカァッと紅くなる。目元を染めるのは葵の健康的な色香だ。唇が紅く発熱したように火照る。それをついばめば困惑に潤んだ双眸が瞬いた。過剰に潤んだ双眸は眼球では抱えきれない潤みを帯びている。
肉桂色の双眸が思慮に沈む。睫毛の瞬く回数が減る。重たげなそれを葛は指摘しない。葵が何か言う前に葛の方から言葉をかける。
「お前が、……泣いて、いるかと思った…」
雨垂れの伝う頬は白く照った。水滴の痕が幾筋も白銀にけぶって輝く。雨垂れの跡なのか落涙の跡なのか、葛には判らないし重要でもない。葵が泣き喚かない限り葛は知らぬふりを通す。葵が言及してほしくない落涙であれば指摘しないだけの気概はあるつもりだ。言葉にするだけがよいとは限らないことを知っている。
「理由は訊かないし泣いていたかどうかの真意さえ俺は訊きたくない。言うな。知らない方がいいことがあることくらい、俺は知っているつもりだ」
葛が顔を伏せたくなるのを葵の手が阻んだ。肩のあたりを移ろっていた手が葛の頬に移動している。葵の指先は少し傷んでいる。裂かれたままのようにけば立つ爪先や、男性という性別以上に指の節が目立つ。それは葵がけして呑気に日々を送っていただけではないことを示す。水仕事や手先の作業をすれば指先や爪先はどうしても傷む。手当てをしてもその差異は判る。葵の指先から見えるのは、幼いころは裕福に暮らしていても現在もその潤沢さは続いていないと言うことだ。生まれも経緯も葛は知らない。葛の生まれや経緯さえ話していない。だから責めるような気は起きないし、権利があるとも思わない。
「…泣くのは止めたんだ」
理由を言わない葵に葛は問わない。葛の抑制を知っているかのように葵はほにゃと笑う。
「知らない方が上手くいくってこと、お前は知ってるみたいで嬉しいよ」
葵の目線が窓の外へ向く。驟雨はいつしか降りしきる。雨垂れは明確に地べたに打ちつけて弛んだくぼみへ水をためた。その水たまりへ幾重にも水輪が重なる。音もなく降りしきるそれの侵蝕は思うよりずっと深い。
「訊かないの」
「訊いてほしいのか」
葵が息と一緒に笑いを吐きだす。仕方ないと諦めるようでいてそれでよかったと安堵しているようでもある。
「言いたくないって言ったら訊かない?」
反射的に訊き返しそうで葛が返事をしかねる。それにさえ葵は正直なんだからといって肩を落とすように笑う。
「葛ってさ、馬鹿正直の方の馬鹿だって言われない?」
「馬鹿だと言われて黙っていたことはない」
むっとして言い返せば葵は意味ありげに笑った。
「それでも…相手が嫌だと思っていることを無理に訊きだすようなことはしていない、つもりだが…」
むっと唇を尖らせて目線を逸らせば、葵の吐息が笑う。葛は目線を戻せない。頬が火照ったように熱い。耳まで熱を帯びているようで赤らんでいるだろうことが感じられた。羞恥を明確に示してしまうことに恥ずかしさを感じる。それでも葵はそれにさえ言及しない。ただ、ありがとうといった。
「降った雨がどうなるかなんて、知らない方がずっとずっと幸せで居られるんだ。そう思わないか」
目線を上げた葛の前で葵は窓の外へ目をやっている。降りしきる雨は直線を描きながら終わりまで線を引かない。途中で立ち消えるその流れは、確実な侵蝕だけを帯びて感覚にのみ感じる。降る雨垂れを目で追うなど不可能だ。地面で降りつける前に見失う。地面へ降り注いだ結果として水輪を帯びる水たまりを発見するだけで、降る雨粒を目で追うことなどらちもない。無為なことである。それでも葵は、そういった意識的な無視が必要であると微笑んだ。葛が雨粒を目で追えないことを責めない。それでいいと言う。
「その方がいいんだ。見えない方が上手くいくことなんて、いっぱいあるだろ」
葵の双眸は雨垂れを含んだように過剰に潤んで煌めく。瞳孔の深淵がのぞける。吸いこまれるようなそれに魅入られながら葛はそっけなくそうだなと応じる。
「オレは葛に知ってほしくないことをいっぱい持ってるんだ、だからごめん。ありがとう」
葛の追及はそれで完全に遮断される。けれどそれでいいのだと葛はどこかで知っている。
知らないことは罪かもしれない、けれど責ではない。
知らないことが助けになる場合だって、あるんだ。
《了》